伊佐渓輔 年譜
昭和6年2月20日 新潟県小千谷市本町四丁目に生まる。菓子屋の長男である。
12月4月 小千谷小学校に入学。支那事変はこの年7月に起こり、五年生のロ月には大東亜戦争に突入した。
18年4月 長岡商業学校に入学。水泳部に籍を置いた。この学校は、翌年第二長岡工業学校と改称され、戦局の要請に応ずベく工業課程が授業の大部分を占めた。
20年1月 学徒勤労動員として新潟鉄工所長岡第二工場へ出動。旋盤でネジなどを作ったが、いずれ不良品ばかりだったにちがいない。その他石炭荷役、防空壕掘りなど。月五円の月給をもらったかと思う。B29の美しい飛行機雲を仰いで戦勢非なるを感じはしたが、祖国が敗れるなどとは決して決して思わなかった。
同年8月 終戦。学校は再開されたが校舎は焼けて無く、転々と他校に間借り、雨の日は傘をささねばならぬ教室で新聞紙のような教科書を使つての授業となった。隔日登校・二部授業など、余った時聞は長岡の焼跡をうろついて、当時五十五銭の映画を観、氾濫する歌謡曲をおぼえた。音楽部の復興に参加、一同でラジオに出演。卒業式場は現長岡高校の講堂。平時の半分ほども授業を受けぬ卒業生だったが、「信用される人聞になれ」との訓辞だけを今に忘れずにいる。
23年4月 北越銀行に就職。小千谷支店の出納係だった。
27年1月 魚沼病院(隣家である〉に入院。肺結核である。同日月胸郭成形手術を受けて前途に光明を感じたが、気管支結核を併発したため休職期聞が切れ、却年1月銀行は退職となる。
29年10月 隣床に瀬沼三郎氏あり、俳句の手ほどきを受け、後に片山春路氏の指導を仰ぐ。花守入会は却年秋の第七号。退院自宅療養に移り、しきりに近郊を歩く。銀行に再就職を希望したが容れられず、世の無情なるを憤り眠れず。前途に何らの方策をもたず、ひたすら怠惰な日常に俳句についての知識だけが加わっていった。
30年8月 花守の編集をはじめる。9月同人となる。
31年1月 株式会社遠藤書店に就職。花守の編集とともに、以後の日月を支配する両輪の出発である。
35年11月 結婚、妻は郁子。二年余思い迷うことをくりかえし、ようやくにしてたどりついた結婚であったが、むしろ虚脱に襲われ見るべき句なし。
45年1月 花守編集を辞す。いつしか花守は創刊二百号を越えていた。感慨と空白…。
(補遺)
37年6月 長女葉子誕生。
40年3月 次女訓子誕生。
42年12月 長男道雄誕生。
47年8月 父喜一郎死去。七十三歳。
51年10月 伝記『和国鉄二郎』を著す。(日中戦争当初の南京渡洋爆撃隊長、縁戚に当る)
55年12月 家業の菓子屋「大和屋」を廃業。
61年9月 再度「花守」の編集に就く。
62年3月 「花守」が小千谷市より表彰さる。
62年6月5日 小千谷市歴史講座に出講、「花守の歩み|地方俳句雑誌の三十年」を講演。
63年9月19日 小千谷病院に入院。
28日 食道狭窄部摘出術を受く。
平成元年7月10日 午後七時十七分、食道癌により逝去。五十九歳。戒名・渓哲泰然居士。

注:この年譜は花守(昭和四十五年五月号)の自選句集「わかれみち」に付された、渓輔氏自らの記述に、編集者が補遣を付したものです。

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